あの事件の舞台が秋葉原でなければならなかった理由
まったくもって憶測でしかないんだけど、とエチケットペーパーを敷いておいてだ。
犯人は現場のひとびとに、人間として見てもらいたかったんだと、俺は思う。
最初、俺は「そのトラックで六本木ヒルズにでも突っ込めばよかったのに」と思っていた。
東浩紀セソセイはこういう意見らしい。
彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。もし彼が首相官邸や経団連本部に突っ込んでいたら、だれもがそれをテロと見なし、怒りの実質に関心を向けただろう。彼はその点でいかにも幼稚だった。
http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY200806120251.html
でも、その次につづくこの文で、俺はそれまで気づかなかったある可能性に思い当たった。
無辜(むこ)の通行人を殺してもなにも変わるわけがない。
犯人は、それとは逆に考えたのではないか。
秋葉原で無辜の通行人を殺すことでしか、変わらない、と。
それが、自分を人間として、その絶望を人間のものとしてみてもらう唯一の方法なのだ、と。
犯人は世間に相手にされていないという思い込みに捕らわれていた。劣等感の塊。同じ人間として見られていない、何段も下等な存在のように扱われている。
そんな存在が永田町や大手町でテロっても、そもそも世間は事件扱いしてくれないのではないか。六本木や青山でテロっても、山から降りた猿が人を襲うのと同じ目線でしか見られないのではないか。それでは天災と変わらないじゃないか。
それではダメだ。人間が起こした事件だと認めさせなければ、変わらない。
犯人が日頃コミュニケーションを交わしていた―と思っていただけで一方通行だったかもしれないけど―ネットの向こう、その象徴としての秋葉原。憧れなんてとんでもない、親近感ですらまだ遠い、彼の目には、自分を人間として見てくれる、自分の起こした最低最悪の行動に人間性の断片を見取ってくれる、人間の起こした事件だと認めてくれる、そんな人間は秋葉原にしかいないように映っていたのではないか。
ま、いずれにせよ幼稚という評価をせざるを得ないのは俺も同じになってしまうのだけど、じゃあそれを幼稚だと気づかせるには何が必要だったのか?その幼稚な思考の隘路に至らしめたであろう当人の世界観の歪みには着目する人が現れてもいいのではないか。たぶん無駄にはならないよ、今後も同じような事件ボコボコ起こるだろうから。
……なんてことを深夜に「ToLoveる」見ながら考えてる俺もどうなんだ。つーか初めてToLoveる見たけどあの世界は液体やエアロゾルが衣服として機能しているようでたいした進歩的世界ですなあ。