金魚運動で全て解決します。保存会

旧はてなダイアリー id:mrnkn で公開されていた日記です。更新はされません。

恋愛・感情(←人間・失格みたいな感じで)

「コイビトって何なんだろう」
「また唐突だねえ」
「うーん、なんかいつも違和感あってさ。なんだかよくわからんのよ。たとえば彼氏彼女と恋人ってのは同じ意味なんだろうか」
「そんなこと真面目に考えてる人そうそういないよー。付き合ってる本人たちが思うように思ってればそれでいいんじゃないの?」
「そう、その『付き合ってる』ってのがわからん。いわゆる『付き合ってる』ふたり、っていう状態は、恋人同士ってのと同義でいいのかね」
「同義っていうか、あんまり区別して使ってないと思うよ」
「んー、そんなもんなんだろうか」
「まあ、感じるニュアンスに違いはあるかもね。深さっていうか重さっていうか」
それにしても、と一息ついて、俺の後ろに背後霊でも見ているかのような表情を変えずに彼女は言った。
「なんでそんなことが気になってるの、急に」
「いやさ、恋人っていうのはさ、恋してる人なわけじゃん」
「そうだねえ」
「恋してるってことは、恋愛感情を抱いてるってことじゃない」
「うん」
「恋愛感情ってことは、ただ好きっていうのとは違うってか、それより狭い意味での特別な感情ってことだ」
「そうね」
「俺は男だから男のことしかわからないんだけど」
本当かどうか自分でも判らない言い訳を挟んで、俺は言葉を続ける。
「男の恋愛感情って、どう考えても性欲と切っても切れないっていうか、性欲から生まれるものでしか有り得ないと思うのよ」
「ふにゃ」
彼女は獲物を見失った仔猫のように暫し中空へ視線を泳がせる。別に性欲という単語に過剰反応しているわけではないのは俺には解っている。ちゃんと受け止めて、考えてくれているのだ。しかし彼女のそういうところに甘えてこの手の話題をつい振ってしまう自分の癖は決して性質の良いものではないとも感じていて、彼女の反応が一瞬でも淀むと反射的に申し訳ない気分になる。
「…ってことはさ、そういうことがあったってことだよね?」
えっ。
「あったんだよね? そうだよね? そうじゃなきゃそんなこと言えないよねえ」
えっえっあの。
「つまりキミの恋愛感情は常に性欲と共にあったと」
「んーあーえー」
ついに耐えられず声に発してしまった。
「まあいいか。それで? 続き続き」
「えーあー、オホン」
いかにもわざとらしい咳払いだが、こうでもしなけりゃ俺が立て直せない。
「あー、それで、だから恋愛感情ってのは、男にしてみたら『ヤりたいモードに入ってます』って意味なわけでさ。つまり恋人って言った場合はそういう関係ですよって言ってることになる。大雑把にはね」
「ふんふん」
「だけどさ、好きです付き合ってくださいって言って付き合い始めたばかりの人達の、その『好きです』ってのは必ずしもその、性欲に基づく恋愛感情とまでは行ってないというか」
「んー」
「もっと軽い気持ちで始まってるところから恋人同士と呼んでしまって果たしていいのかというか」
「友達以上恋人未満ってやつ?」
「いや、それはまた別だな。『付き合い』始める前のことになっちゃうから」
「そっかあ」
「それで、恋愛感情まで行ってないのに恋してることにされて、つまり性欲に支えられた関係とみなされてしまうというのはどうなのか、という……」
だんだん自分でも何を言っているのだか解らなくなってきた。
彼女は風呂場で浮力を思いつく寸前のアルキメデスみたいに苦み走ったその顔に掌を添えて唸っていた。
「……」


「どうした? なにか思いついたの?」
「ちょっとさ、こっちに顔近づけてみて」
手招きする彼女に従って首を屈める。
「もうちょっと。まだまだ」
「もっと?」
「そうそう、それくらい」
距離にして四十センチくらいか。視界のほとんどが彼女の、何か企んでそうなニヤケ顔に隠れている。
「それで何かわかるの?」
「まあまあ、終わってみてのお楽しみ。んじゃ、今からそのままの姿勢で、こっちを見たまま黙って二十かぞえてください。十じゃなくて二十ね。動いたり笑ったりしちゃダメだよ、やり直しだからね。それじゃ、はいスタート」
「んっ。十じゃなくて二十」
言われるままに彼女の顔の方を向いて静止。一、二……。
ほどなく彼女の顔からニヤケが消えていた。
口を軽く結んで、まっすぐに俺のほうを見つめている。この表情には何かしら裏がある。何かあることは感じられるのだが、それが具体的に何なのかは判らない。そんなに難しいことではないだろうとも想像はつくのに、その難易度にすら俺の経験値では届かない。
三、四……。
ええと、笑ってはいけないんだよなあ。心頭滅却すれば火もまた涼し……こうしてみると随分と整った顔ではある。ふと、彼女と初めて会った時のことを思い出していた。あの頃の彼女は今のようには笑わなかった。だから余計に綺麗にみえて、見えない壁を勝手に感じたりしていたものだった。あの頃の、なんとなく避けていたとすら思えるほどの関係から、どこをどうして今に至ったのか。彼女が本来の表情を取り戻していく一方で、俺は……
五、六……。
彼女の瞳が音もなく閉じられた。おいおい、にらめっこなら目を閉じちゃいかんだろ……それだけじゃない。なんでか知らないが顔が熱気を帯びはじめている。頬を桃色の成分が侵し尽くしていく。この距離だと、普段気づかないような肌理の細やかさや産毛の靡きまでもが、まるで顕微鏡写真のようにくっきりと映り出るかのようだ。
七、八……。
そして結ばれていたはずの唇がちょっと緩んだ。いや緩んだんじゃない、吸いつくように丸く、窄められていた。どういうつもりなのだ。いつの間にやら熱気が俺にも移っているかのような感覚。
九、十……はあ、やっと十だ。
『十じゃなくて二十ね』彼女の声の記憶が脳裏を駈ける。そういうことかよ。
彼女のつくった表情が何を意味するか、さすがの俺でも正面固定のこの位置にいては理解せざるを得なかった。いや、理解じゃなくただの反応というべきか。瞳を閉じて唇にほのかな緊張を漂わせる彼女を前に、あと十秒、俺はただ黙ってこのまま待っていなければならなかった。にわかに膨れあがった衝動に耐えなければならなくなったのだ。
劇のワンシーンなどではない、何の仕掛けもないただのおしゃべりの途中。予想していなかった。予想しないようにしていたのかもしれない。演技か? 正気か? どちらでもない? 現実はただ俺の目の前にある。動かないでいる彼女と、動いてはいけない俺と。そう、動いてはいけないはずなのに。四十センチが限りなく遠く。十、九、八、限りなく長く。時間が数えられない。身体をとどめていたはずの、見えない鎖が解ける。俺は我慢するのを止めて両腕を、
……伸ばせない。
俺を縛っていたのは約束ではなかった。
鎖で繋がれていた先は自分の内側の、たぶんそれは恐怖だ。
俺はこの衝動を覚えている。このあとに何が起こるかを覚えている。どれだけの時間と、どれだけの感情と、どれだけの信頼を失うかを。
衝動なんて幻に過ぎない。消えるまで待てばよいのだ。初めから何もかも無かったことにするだけ。苦しいのは一瞬だ。それでもその一瞬が気の遠くなるほどの長さであるのは変えようがなかった。記憶との対峙は衝動との戦いよりもさらに厄介だった。震えが止まらない。俺は何と戦っているのだ。どうして戦わなければならなくなったのだ。忘れろ、何もかも。これは思い出してはいけない記憶だ。戻ってはいけない過去だ。


「はい、二十秒」
紛れもない彼女の声で正気に返った。明らかに不穏な速さの心拍が直に脳に響く。目の前の表情はさっきまでのニヤケ顔に戻っている。俺は一体どんな顔をしているのだろう。
「むふふぅ」
彼女は何やら別腹のお菓子でも貰ったかのように満足げな笑みをこぼし始めた。なんだそれは。こちらをみて突然そんな顔になられるのはちょいとナニだ。
しばらく彼女はそんな小癪な微笑みのままだ。俺がようやく元の落ち着きを取り戻し、突っ込みを入れられるようになるまでに、さらに二十秒を要した。
「なにニヤニヤしてんの」
「どうだった?」
「だから何が」
「わたしに『恋愛感情』持った?」
「…はぁっ? そんな簡単に持つようなもんじゃないだろ」
「むふふぅ」
俺の否定的な返事はなんの意味も持たなかった。彼女にはたぶん裏の裏まで知られている。まったく崩れない、いや表情としては崩れまくっているのだけど、その笑みに敵う反撃手段を俺は持たない。
「じゃあさ、わたしを襲いたいと思った?」
「…どういう意味さ」
というか、そういうことを訊ねてくること自体かなりどうかと思わざるを得ないのだが。
ふと、彼女の表情から再びニヤケがなくなったのに気づく。
「泣いてる」
そう聴こえた。俺に向かっての言葉ではなかったが、思わず
「え」
声に出すのと同時に、スタジアム客席のウェーブのように触覚が反応する。つっ、と頬から顎へ水が落ちていた。ほんとだ、泣いてた。俺が。
「……ごめん」
「いや、そんな」
何が起こったのかわからない。彼女はもう一歩前に出て、いったんこちらを見上げるかっこうになる。でも視線は逆に下へ向いて、
「答えはどっちでもいいけど」
そして顔をきゅっと俺の胸元に押し付け、
「それで…何も思わなかったってことは」
一回クッ、と痙攣のような音を鳴らして、
「ないよね」
それっきり動かなくなった。
……もちろんのこと、俺も動けない。


それで、さっきので何が『終わってからのお楽しみ』だったんだ?
そう訊ねたかったのだけど、やめておいた。彼女は万能ではない。たぶん彼女は失敗したのだろう。そしてそれがなんだか良くない方向にスイッチを入れてしまった。彼女は何か誤解しているかもしれない。あるいは、そう思っている俺の方が誤解しているのかもしれない。
何がコイビトで、何がレンアイカンジョウなのか。それが何なのか知るよりも、たぶん今はもう少し力を抜いて、感情に流されることの方が必要なのだ。
燃えるような。そんな比喩が相応しいような感情は、まだ持てそうにないけど。
秋の日はとうに沈んで、窓から見える僅かな空はもう藍色に煙らんとしている。
部屋の空気が冷えていくのに気付く。
俺は手持ちぶさたになっていた右腕をそっと彼女の背中に回して、ボタンを