オタクとファッションとライフスタイルの話は間歇的に蒸し返されるようです
脱オタクファッションの限界 - 30代からの脱オタク
を読んで、なつかしきデジャヴ。
- 2006 http://d.hatena.ne.jp/mrnkn/20060901/1157117785
- 2005 http://d.hatena.ne.jp/mrnkn/20050727/1122473280
- 2004 http://d.hatena.ne.jp/mrnkn/20040522/p2
毎年1度くらいはこの話題が蒸し返されるみたいだ。俺の中で。
この話題についての最近の俺のスタンスは、「自分のアイデンティティをオタクであることに依拠しすぎていると、ファッションをいくら変えてもオタ臭は消えない」といったあたりだろうか。
きわめて感覚的で、まとまってもいないので他人に伝えるべき段階ではないのかもしんないけど、「拒脱オタ」「避脱オタ」みたいなかんじ。語呂が悪いが、モテに対する拒モテ・避モテのように、脱オタを意識的あるいは無意識的に恐れたり否定したりしている状態。脱オタで大事な何かを失うかもしれない、それがこわい。そういう気持ちを心のどこかに残しているかぎり、着衣やアクセサリー類だけ変えても根本の自分の意識が変わらんのですよ。自分の意識が変わらん限りは外へのアクションの仕方も会話時の反応も変わらず、悪い意味でのオタ的な仕種しかとれないままですよ。
で、それを打開しろとは言わないまでも、だったらどないしたらええねんと自分に反問してみたとき、俺はどうしてもげんしけんのコーサカをその向こうに見てしまう。べつにコーサカのように美形である必要なんてないんですよ。ただ「それはそれ、これはこれ」って、方面の違う趣味や行動パターンをナチュラルに併存させられないだろうか。ナチュラルにエロゲーしたり声優ソング聴いたりする一方でナチュラルにファッションも向上できないか。ナチュラルに泣いてる彼女を腕に優しく包んであげられないか。やっぱ無理か。でも1割でも2割でもいいから彼の有り様からヒントを引き出せないかとは未だに思う。